旅するニート – 長浜/ 旧細菌検査室

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みのむしクリップ

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主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

『ほんわり、旅をする』そんな緩やかな気持ちで紹介したいところを書きたいな、と思っていた「旅するニート」。
今回はそれとはちょっと違う。
始まりは、横浜市、長浜にある廃油貯蔵タンクを公園に作り替える現場で、重機がタンクの中に30m転落した事故(2020年8月24日の週に発生)から。
長浜の現場をgoogle mapでみると、タンクがたくさんそのままに残っている。
旧日本軍が使っていたものを米軍が引きついて、それが返還されたらしい。
映画「海賊と言われた男」で出光が戦後の立て直しの時に廃油処理を行った話が出てくるが、こんな巨大なタンクで作業していたのかと思うと、確かに生死をかけた命がけの仕事だと理解出来る。

そのタンク群の北側を見ると、旧細菌検査室という文字が見えた。
何かと調べて見ると、旧長浜検疫所一号停留所の細菌検査室で、野口英世が在職中にアメリカ丸の船員2人がペストに感染しているのを検疫で発見して、国内感染を食い止めたという実績があるとのこと。
これらの業績を残すため、記念館として保存されたのが2018年5月10日らしい。
細菌だけに、ホント最近の出来事で驚きだ。
建物は、明治32年(1899年)で、100年を超えている。

この建物は、すぐ近くに保管されている旧長浜検疫所一号停留所の施設の一部で、写真正面入り口は、実は裏口。
正面は地下から入ったらしいけど、地下は封鎖されている。
肝心の旧長浜検疫所一号停留所とはと言うと、一年に一日だけ公開されるらしい。(10月とか11月の秋頃)
今年は新型コロナウィルスの関係で、公開は中止らしい。
戦いは今でも続いていると言うことですね。
江戸末期や明治14年、28年あたりに東南アジアから持ち込まれるコレラ菌に日本は度々悩まされていた。
歴史の教科書にも、江戸末期のコレラ菌の話は出てくる。
感染被害の8割はコレラ菌と言う事なので、この検疫所の役割は大きかったのでは無いだろうか。明治の後期にコレラ菌が蔓延した記録は余り目にしない。

また、この時代は、細菌が病気の原因という事が判ってきたため、細菌を単純培養して、病気を確定。その菌を弱めてワクチンを作ったり、対処方法を見つけたりしていたので、まず、純粋に病原菌だけ培養が大切な作業だった。
細菌は、瀬戸物の素焼きの穴を通ることが出来ない。
でも、ウィルスは通ることが出来る。
ウィルスがまだはっきりと判らなかった時代なので、この瀬戸物フィルターを透過する病原菌(菌じゃないけど)の存在が有りか、無しか、それが論議の的で、野口英世は最初は否定的だったが、後に
「そういうことがあるかもね・・・。」
って、認めたらしい。それぐらい、ウィルスが未確定な時代。
だってウィルスは、顕微鏡で見えないし、電子顕微鏡はずっと後の時代だし、やれることにも限界がある。
今のように電気が使える時代では無く、電気って電灯や発熱体しか使われてはいなかった。遠心分離機も冷蔵庫もない。ないないづくしで大変だったと思う。

細菌検査室の展示は、野口英世先生の生い立ちがパネルになっていた。
日本の代表的な細菌学者の北里先生がいた感染症研究所から派遣されて、5ヶ月間、横浜の検疫所に滞在の後、中国で発生したペスト対策の国際チームの一員として野口英世が参加するまでの間・・・。
なんか、短くねぇ。野口英世って21才が22才で医者の免許を取って、北里先生がいる感染症研究所に入って間もないんじゃ・・・。よほどのエリートなんだ。
と言う事で、みんなで野口先生を惜しんで、「ターバン野口」を折ろう。
1000円で見られるのも、あと少しの時間だ。

[ https://blog.neet.co.jp/2020/07/デザイン刷新、日本銀行券とターバン野口/ ]

野口先生は、この後、日本にはほとんど帰ってこない。
アメリカに行ってしまうからだ。
北里先生がドイツに留学した事があったので、野口先生も海外の進んだ技術に触れたいと思ったとは思うけど、感染症研究所や横浜の検疫所での時間が余りにも短すぎる。
ふと思って、野口英世という人物を振り返ってみると、意外な発見の連続だった。
まず、感染症研究所に入ったものの、野口先生に貸し出された本が、売却されていたことが発覚。
このため、感染症研究所の内勤にいられなくなり、北里先生のすすめで横浜検疫所勤務になった。
えーーっ、実は北里先生との確執で横浜検疫所に行ったのかなと思っていたけど、事実は真逆で、北里先生はかなりの力添えを野口英世に対して行っていた様に見える。
野口英世は語学が堪能で、いろいろな所に徴用されるけれど、お金使いが荒く、借りては使ってしまう。
上京費用を借りたはずなのに、使ってしまう。
渡米費用を借りたはずなのに使ってしまう。
仕方が無く、婚約の持参金で渡米する。
しかし、一向にアメリカから帰ってこない。
5年後にお金を返して、婚約解消など、まあ、いろいろやらかしてる。
結婚については、もともと書生時代に知り合った、同じように医学を目指していた女生徒が好きだったようだ。
何度かプレゼントとかしていたらしいが、相手からは「野口先生の中継ぎはしないでほしい」なんて事があり、この失恋の痛手を引きずっていたのかもしれない。
いろいろやらかしているのに、野口英世にお金を貸す人がいるし、北里先生は力添えをするしで、周囲の人からは好かれる人だったんだろうな。
だって、こんなにいろいろやらかしても、周囲は容認してくれると言う不思議な現象。
最も、理由は野口英世が、半端なく優秀だからと事だからかもしれない。
はじめに書いたように技術が不十分な時代だったので、彼が書いた論文の多くは間違いもあったようだ。
でも、とにかくすぐ発表することを信条としていたようで、確かにそれによって、正しいとか、間違っていると言う議論と検証が進むわけで、実際この時代の進歩にはとても貢献したと思う。
ノーベル賞候補に3回も挙がってくるあたりが、すごいことだと思う。
世界中に彼の銅像があり、ロックフェーラー財団で働く日本人で、おそらく日本人初めてのカラー写真の被写体。
そんな野口先生の人生を振り返って見てはどうだろうか。
ちなみに、野口英世は、1度、名前を変えている。
その理由と変え方の手法がなんともすごいし、自分の学費の捻出に、自分の保護的な人の給料をupしろと、その人が働いている所長に交渉したり、まだ10代だったり、まあ、なんともすごい人だ。
給料を4円から14円に二段階でアップしたらしいけど、20万の給料が70万になった感覚だ。
これだけでも、ZOZOTOWNの前澤氏ぐらいすごい。
ちなみに、細菌検査室は、静かでちょっとだけ怖い。

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