見通せる範囲と、守るべき範囲について

The following two tabs change content below.

みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

優秀な人も、お金持ちも、進むべき道に悩んでいる。
その特効薬は、志を同じにする、同志の存在。
「同志!!」と叫びたくなったら、ニート株式会社へ。


宇宙に行こうと準備をしてる「前沢さん」は、寄付について、
寄付を行う行為について、もっと前向きな姿勢でたたえ合う時代を望んでいるとtwitterで書いていた。

これから書くことは、批判とかでは無く、ただの状態の分析で、誰が良いとか、間違っているとか言いたいのではない。
ただ、遙か以前から世界は「前沢さん」が望むようになっていると伝えたい。
そして、いまでもそうだ。
「前沢さん」が不満を感じているのは、寄付をしているのに批判を言う人がいるからだと思うけれど、それはインターネットが作り出したネットワークが、とってもフラットな関係に人を置いているから、起こる事だと思う。

批判が良いとか悪いとかでは無く、単純に世界は広く広大で、その上で成り立つ思想も多様に細分化している。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が一つの同一の神の寵愛を奪い合い。
クジラ、猫、犬、牛、ブタ、そして人を食べてはいけないと説き。
物質では何も救われないと、精神的な世界に誘おうとしている傍らで、PCやスマホが作り出す仮想空間に心を許され、希望を得る人達がいる。

だから、寄付の行為は崇高だけど、寄付をする先が問題だと感じる人もいる。
広がりの中では、そういう考えもあり得るだろう。
戦争で人が死ぬことは、意味があるという人がいるように、概念の違いは想像を超える。

そういう多様な世界とフラットにつながるインターネットの仕組みは、人の意見や意識をもフラットに繋げる。
いったい個人は、どこまでの範囲に存在しているか。
日本の法律?、街の条例?、グループでの決まり事?・・・まあ、グループでの決まり事が、本来、人の意見を聞く事ができる範囲なのだろう。
それを超えた意見に意味があるか無いか、そこがポイントだと思う。

キリスト教の信者が仏教の教えを元に語るべきかどうか。
第三者的な視点からは、宗教間でいがみ合っていないで、互いに意見を聞くべきだと思うかもしれないが、そもそも宗教として従うべき経典があるのに、違う価値観を持ち込むことは出来ないと思う。

寄付に対する批判や意見も、第三者的な視点のコメントで、それはインターネット社会では、尊いもの。
でも、当事者視点では、その意見が必要かどうかは、わからない。
寄付をしたいのは自分だし、誰もそれを妨害する事は出来ない。
だから、その意見をどこまで聞くのか、見るのか、採用するのかは、・・・・。
自分次第。
「前沢さん」の周囲の方は、彼を支えて、たたえていると思う。
少なくてもtwitterのフォロアー達は、彼をたたえていると思う。
そして、その力を感じているだろう。それを信じれば良い。

井の中の蛙という言葉を聞くけれど、井の中の蛙が良いのか悪いのか、それは誰が言い始めたのだろうか。
決められた世界の中を知って、把握することは悪いことではない。
その井戸すべてが、カエル王に従い、反対する者がゼロで、問題が無い!!

と、書くと人は不安になるもので、反対意見がいる事で安定すると言う気持ちをどこかに感じている。
それは、今まで生きてきた生物のDNAに刻み込まれた叫びかもしれない。
反対する人がいるから、自分の進むべき道は、間違いでは無いとか、間違っているかもとか、思い直すきっかけになり、結果、それが自分の道を考慮深く、正しい方に導いてくれている・・・と言う思いが、経験則が生物としての安定を感じるのかもしれない。
反対意見もその視点で見ると、友達なんだと思う。
世界は一つ。
と言う平和的な話しも、自分の信条以外の文化の存在を認識して、かつ、自分の信条が侵害されないという元に成り立つと思う。
自分を否定しない、相手も否定しないが基本だと思う。

そして、インターネットというボーダーレスでフラットな世界では、
「前沢さん」の違和感を感じる発言の範囲は、彼が見ている世界の広さに一致すると思う。
その範囲によって、彼を100%たたえている世界から、広く見たら批判も多く見える世界まで選択肢は広がる。逆に考えると彼自身が、批判の範囲を選択していることになる。しかも、その広さはどこまであるのか、わからない気がする。

今やネットの空間は、地球の様に広がりが決まった球では無くて、中世ヨーロッパに考えられた、カメの背中に乗る無限に広がる平面・・・・。
広大すぎて海の水が落ちる端なんで、見える気がしない。

成人した人が海辺から見通せる範囲は、約4Kmと聞く。
子供は勿論もっと短いし、灯台から見ている人は、ずっと広い世界を見ている。
役割によっても、その範囲は変わる。
見るべきなのか、見なくて良いのか。
成長に合わせて、その範囲が広がる点は、面白い・・・かな。

私的には、
気持ちは、すぐいっぱいになってしまうから、小さな井戸がいい。
同志と呼べる仲間も少ないし、まず、戦えない。
優しいゆりかごのように、静かな生き方が出来る範囲が丁度良い。
カエル王、万歳。

スポンサーリンク