技術部の壺の中 — Vol. 74 [googleの線上の関係]

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みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

最近、ブログの書き込みが過疎って来て、まるで広い部屋の中にぽつんと置き去りにされている様な感じになる。
ひとりぼっちだ。
空間的に広い場所でひとりぼっちみたいなイメージに。
ネットの世界に物理的な距離の概念はないのだけど、完全に外部とのつながりが無くなると、ネットワークのつながりの方が、空間が広い疎外感を感じる。
うーん、これが進化なのかもしれない。物理的な空間を超える疎外感・・・。
これは、人がどうやって距離を感じているかに由来すると思う。

孤独死って言われる環境は、実際は周囲の音が聞こえるし、周囲からも部屋の中の生活感は少し判る。
ちょっとした音が聞こえたり、耳を塞いだときの空間の広がりや、真っ暗な部屋がどのぐらいの大きさがあるかなど、感覚から得る情報を使い過去の記憶を参考にして、人は空間の距離を感じていると考える。だから、自分がいる空間が広いか狭いかは、五感の感覚だ。
インターネットという概念が入ってきた世界、人の意識がそのつながりに特化すると、果たして人は自分のいる空間を広いと感じるのか、狭いと感じるのか。
これは、視覚や文字情報の五感的な要素もあるけれど、ほとんどが、状況から脳が考え出した推測だ。

インターネットが始まり電話モデムで通信していた時代に、ソフトの担当とネットの感覚について、話した事があった。互いの意見は違っていた。
私は、ネットワークに繋がる感覚は、自分がそのドアを開けで相手のネットワークの中にお邪魔するというイメージだと言うことに対して、ソフトのエンジニアは、自分のPCにすべての世界が詰め込まれていて、その中をあさる感じと答えた。丁度、机の中の文房具のような感じだ。
その時代から、すでに意識におけるネットワークがもたらした空間の違いは発生していたと思う。
コンクリート壁の二畳程度の独房にいて、ネット端末があり、その中で一日を過ごした場合、その空間は現実より広いと感じるかどうか。
そこで、ネットがたたれたときに、その空間がどう変化するのか、そう言う実験に興味がある。

これはただの興味の範囲では無く、実社会にも影響している。

大抵の若者は、公共の乗り物で移動するときに、googleで経路検索をする。
この経路検索自体が、線上のつながりだけで成り立っている。
使う条件は、徒歩、電車、飛行機、車。
そして、接続の基本は、丁度、昔の路線図に近い。
乗り換えの位値などは、路線図にデフォルメされた情報で検索されている。
物理的、地理的な空間を伴う相関では無いのだ。
だから、地理的に近い違う電車に乗りかえることや、途中で歩くという手続きは、線上のつながりとしての情報がgoogleから与えられているかどうかにかかっている。
用意された情報の上での経路になる。
googleもいくつかは乗り換えの候補としての検索ができる様になっているけれど、昔は当たり前の様に選択されていた経路が、google検索では出ないことも多い。
路線が無くなったんじゃないかなって、思ったこともある。

かつては、地図を見て近くの路線を探したら、時刻表でその路線の時間を調べて乗り継ぎを考える事を行っていた。
地図で、その路線と交わる周辺を物理的に確認出来る。
線上に調べるのでは無く、平面としての位置関係で調べて路線の乗り継ぎを考える。
意外と隣接した駅があったりする。急行が止まらない駅で、乗り継ぎが失敗する場合もある。
しかし、トンネルや階段を使って歩いた方が近い場合や違う会社の電車に乗り換えた方が速い場合もある。
乗り換えずに、そのまま乗っていた方が面倒が少ないことも。
なぜか、googleは、乗り換えをおすすめすることがある。
googleのアルゴリズムが不明だけれども、とにかく線上だけでつなぎを見ている人は、そういうことに疑問を持たない。
目的地に着く手段としてとらえているから、つけば問題がない。
最近の意識が空間よりも線での繋がりを重視するという刷り込みは、重要な要素だと思う。
逆手を返すと、店の宣伝のため、人の導線がgoogleマップに紐付けされているという事も起こりうる。
まるで、プログラムされたシムシティの住民のようだ。
そのうち、「ここは渋滞が発生する」って苦情を言うとgoogleマップから渋滞が多い道路が消されてしまうかもしれない。
そうやって渋滞回避を行うルールも、世の中には構築されているかもしれない。
人々が気がつかないうちに・・・・。
線上で繋がるという事は、線が途切れたときに、空間の認識も同時に途切れる。
情報が途切れるので、周囲との隔離が、無限の空間の様に感じる。
これが、ネット社会の孤立感と認識されていくのだろう。

空間知覚的に一番近い隣人が、ネットの線上のつながりでは、検索にもかからないって事が起こりうる。
学校でも、町でも、家庭でも、夫婦間でも。
ネットの線上の繋がりが、個々の関係の最優先に来たときに、
物理的な距離の壁は完全にきえると同時に、
検索にかからない者達の間には完全な閉殻ができあがる。

すべてのコミュニティーはネットのフェイクに気がつかなくなる
かも。
そして、私には仕事という線上の関係が薄かったりする。
仕事くださいな。

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