結果と過程と現代社会

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みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

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電車でベッドフォンの音漏れを注意された40才のサラリーマンが、注意した30才のサラリーマンをホームから突き落として、けがをさせたらしい。
電車が来たら殺人にもなりかねない危険な行為だ。
そして、その中に様々な問題を感じた。

■突き落とした方が犯罪になる
記事には書かれていないので、その過程は良く判らない。
週末の電車では『押した』とか、『あやまれ』とか、言い合いが起きる。
金曜日の横浜の駅のホームで何度となく聞く。
人口がある程度いる場所は、似たような諍い(いさかい)がおこる。
たいてい、手で押しあったり、ちょっとした小競り合いになる。
すでにこの時点で、手が出て、一端ケンカになっている。
この場面では、どちらかが押した時に電車と接触して死んでしまう
場合もあり得る。先の例から、音漏れを注意した方が死んだ場合、
音漏れを注意された方は周囲から散々に言われるだろう。
「注意した人がかわいそう」というコメントもつくのだろうか。

その逆に、音漏れを注意された方が、死んだ場合、
「それは仕方がない」とか「自業自得」、「注意した人が被害者だ」
というコメントがつくのだろうか?
結果は人が死んだという事だし、一端は身柄を拘束されると思う。
ただ、ケンカをしたという点で、すでにどちらも手を出した責任は
あるはずだ。そして、そういうことから、手を出したはじめの事象や
過程が重要に思えてくる。

原点に返ると良く言われることは、音漏れが大きかったかどうかと
言うこと。でも、私的な意見では、これはあまり意味が無いと思っている。
「音が常識範囲」とかの表現をみると、曖昧すぎてうんざりする。
違うと思う。
不快に感じるか、感じないか、その違いだけ。
そして、その違いは、それぞれ違う。

荷物が当たって不快に感じたり、話し声がうるさくて不快に感じたり、
はたまた、目が合って不快に感じたり。
動物を見ていても同じだろう。
争いの始まりは、そう言うものだ。
次に、そこから一線を越えるかどうかの敷居がある。
熊も襲ってくるまでの縄張りの距離が問題だし、サルでも、見つめ合った
後の間合いで取っ組み合いになるかどうかがきまる。
人も、その不快だというサインを出している後で、本当に無理っていう
もう一つのサインを出しているはずだ。
そのサインを超えて、相手がさらに攻撃した時に、一気に事が進み、
人が死んだとか、けがをしたとかの話になる。
だから、最後のその結果だけ扱う現状を見ると、なんとも言えなくなる。

■人による一線の違い
これは、自殺とそのリミットの瞬間でも、同じ。
それぞれに限界点が違うという体験は、映画「聲の形」で印象的に
表現されている。何の前情報もなく、この映画を見た私は、
「何で今ここで自殺しようとしたのか。」
それに驚いた。花火を見てその後の自殺衝動。
見ていた自分も、映画の周囲の人達も、花火を見ていることに共感して
まだ、大丈夫・・・・と思ったに違いない。
でも、周囲がまだ大丈夫と感じていることは本人の意識とは、別で
本人は、とっくに壊れていたのだ。
花火という出来事は、最後に穏やかになれる出来事だっただけで、
『よし、死のう』という、気持ちの切換になるための要素だとは思わない。
結果、周囲は手遅れになり、自殺の行為に間に合わない。

過程ですでに一線を越えているので、その原因や振る舞いが本当の問題に思うけれど、世の中の判定は違うことが多い。多分、多数としては、それが正しいし、真実もそうなのかもしれないけれど、私的な気持ちでは、過程を重視して欲しいと叫んでしまう。

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