人の発想力の違いと不適合

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みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

だまし絵は、一つの絵に複数の図案が隠れていて、
それが見方によって、見えたり見えなかったりする。
ひとが絵のどこに注意しているかという事だと思う。

最近の電車の広告で、古川機械金属の広告があった。
(掲載に問題が有る場合は連絡ください。)
社号が「やま」に「いち」なので、よく似ている二頭筋の
イラストを屋号にしているところが面白い。
でも、私的には、富士山に鶴の頭がかかっているように
見えてしまう。

富士に鶴もなんとなく「きれい」だと思うけれど、
基本、そう見てはいけない。
正しいときに、正しい図の方を見ないといけない。
道路標識も同じ事。
そういう違う方を見てしまう人種は、
人と話をしているときに、人が指し示していることを
理解できずに、相手が煩わしい思いをする。

残念ながら私はそのタイブらしい。

発想が違うから嫌われるのか、発想が違う人種は
どの時代も、いつでもいるけれど、そのタイミングも
問題になる。

自分から見ると、およそ正しいと思えないことなのに
それが主流なのだから、参ってしまう。
つまり、自分は正しくは無く。いつまでも不正解のままだ。

ルールで決められていることは明確で、行う事ができる。
でも、ルールで決めたことと、発想や判断は違う。
ルールは便宜上の取り決め。
右側通行とか、左側通行とか、それ自体には別に意味は無い。

この発想の違いは、概念の認識にも問題が出る。
友達を友達と言えない。
きちんと友達承認されていない関係のまま、友達と一方的に
宣言して良いのか。
このブレーキが かかる。
きっと普通は、「友達」ってくくりは、
自分主義で決まるのだろう。
それを 「友達って双方の関係だ」、と考えてしまう。
理想は、理性的であるべき。
枠から外せない何かのブレーキが、
余計にコミュニケーションを悪くする。
生涯「友達」と呼べる人は、どれだけ存在するのか。
お年寄りの孤独死が問題になる昨今、厳密な相互関係で
成り立つ友達なんて、いない事を予感させる。
家族でさえ、疎遠な関係なのに、
その上で、理想と便宜上の表現が錯綜して、混乱して
うまく表現できず、迷走する。

知識とか作業以外に、
仕事はコミュニケージョンが一番始めに来るから、
多分それがダメなんだろう。
どこまで行っても、社会不適格というカテゴライズからは
ハズレないし、
どこの環境でも、どの階層でも、どの時代でも、
このポジションは「当確」なんだ。
もう生まれながらのパーフェクトな社会不適合の当確って
気がする。
一つがダメだと、もう何もできない様な気がする。
赤い部分を 見てはいけないのだ。

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