人が到達するということ

The following two tabs change content below.

みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

人は何になるんだろうか。

年老いた人たちをみても、
何になったということはない。
ただ寝ているだけ。
何かが終わって完結したという部分が
人にとっては、何もない沈黙。

いや、
木にしても最後は木材になるとかいうが、
それは木自身がなしえたことではなく、
外部の者たちが気をかってに利用しただけに過ぎない。
木は、最後は朽ちて、森の一部になる。

木にとっても、成長していく途中で、
鳥たちと戯れたときが一番充実していただろう。
人も同じなんだな。

何かを行っている進行形が、
生きていることを感じて充実していた時なんだ。
そう思うと、
人生は何かを行って、ものが完了することで、
何かを成しえるように錯覚する。
自分自身は、その出来事から時間がたつほど
乖離(かいり)していく。
意識をその業績にとどめておいてはいけない。
相対的な感覚では、自分はそこに置いて行かれる。
進むことでしか、新しい充実は生まれない。

でも、何かを成しえるということと、
人が生きるということは、つながりがあるけれど
同一ではない。
ただ生きるだけで得ることの充実を
忘れている気がする。
何かを成しえる必要が、
本当はあったのだろうか。

p.s
うーん。日本語キーだと、『かいり = tel』なんだな。
意思の疎通が起きたときは、電話して!! みたいな感じ。

スポンサーリンク