運命は足し算じゃない

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みのむしクリップ

主に電気関係で仕事をしてきたけれど、気が付いたとき、日本の電機の会社ってほとんどなくなっていた......... そんな需要のない今を 日々生きています。

人は報われることを望んでいる。
良いことを積みかさねることで、やがてそれが返ってくる。….と。

悪いことをすれば、「徳ポイント」がマイナスになり、善行によって「徳ポイント」上昇って、ゲームならそうだけど、現実社会はそうではない。
仲間同士で国を作るとしても、相互利害のため、法律という取り決めで、良い/悪い、刑罰や罰金を貸しているだけで、基本、性悪説も性善説も成立はしない。
やりたいがまま。
それが性善説か、性悪説かなんて、細菌が人間にとって都合が良い善玉菌か悪玉菌かと同じレベルの判定で、境目の[ゼロ]の場所すら曖昧だ。

奪い続ける者は、取り決めの法律で裁かれない限り奪い続けるし、奪われる者は不愉快と強く感じない限り奪われ続ける。
その上で「平等」なんだと思う。
奪う人達は、ためらいも無く、際限も無く、すっかり奪いつくすがいい。
どんなに奪われても、しょうがないねって事で、僕らの生活は変わらない。
法に従わないみせしめとして、犠牲者が出ることがある。
「従わない」、「不平を言う」そういう人達は、イキカタも違うから、法で裁かれる。そして、周囲は裁きに抵抗はない。
約束事だから。

江戸の時代、領主の非情な要求に農民があらがう。
みせしめに罰を受けて、処刑される。
それが、幕府に見つかり、お家断絶。
それは、長野や九州、島原で事件として起こっているので、何時の自体も一定の正義は存在している。
奪う方にもルールが存在する。

この世の支配者からすべてを解放すべき!! って事ではなく、この平穏に秩序だっている今の平和な社会は、素晴らしく静かに日々が流れているのだから、このままの流れが正義なんだろうという事だとは思う。
労働の問題や借家住宅で生きることにお金がかかりすぎる反面、年金が少なく、孤独死で死んでしまうことも問題としては残るが、それは大政に対する小さな事なのかもしれない。
それだけを不幸ととらえては、いけないのかもしれない。

「引っこ抜かれて、あなただけについて行く。今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる。……でも私たち愛してくれとはいわないよ。」
ピグミンの歌

かわいそうだからと言って、自分の持っているものを無償ですべて与え、そして自分はすべてを失い、価値は下がり、死んでいく。
街のシンボルの金ぴかの銅像とツバメの話だ。
小銭をもらった人は、少しの幸せを無償で得る。
しかし、街はシンボルの黄金像を失い、渡り鳥も南に帰ることが出来ず、死ぬ。
鳥は、銅像の願いを聞いてしまった事による不幸の連鎖。
「幸福な王子」より

その物語は、また、物語を書いた作者は、何を伝えたかったのだろう。
目的を忘れて、身を削ることで誰かを救った気になるのは、偽善行為と言う事だろうか。
・少なからず救われた人がいたから、そういう自己犠牲が必要
・自分の力を超えて何かをすると、本来の目的が失われる
・誰かに対する自己犠牲は、周囲の者を巻きこんで不幸にすることがある
・自分の物ではないお金を勝手にばらまいた。

この物語は、何を教えようとしたのか、本当の狙いがわからない。
子供的には、「かわいそうだね。」って話しも、そのかわいそうは「お金を配ったことは正義」という上での判断になる。
でも、よくよく考えると、他人の、街のみんなの願いで作った自慢のシンボル。
それを無にするのは、良くない事だ。
集めて、与えて、で、その元は集められる者のお金で・・・・と、ぐるぐる回りっぱなしだ。
童話の最後は、銅像の心臓と死んだツバメを拾ってきた天使が褒められる。
「この街で最も尊い物を拾ってこい。」
と言う要求に対する答えとして。
銅像とツバメの行為は、「善行」と神に判断されるのだけど、本人達には届かない。ツバメや銅像の運命は、何も変わらない。
天使が褒められるだけ。
出来事の最中にツバメと銅像の王子が救われなければ、善行の意味が無い。
自己犠牲は、「犠牲」になって初めて意味をなすので、犠牲と言う死にいたるまで放置が常なんだとは思うけど、無常な感じだ。
それを読んだ子供達が、善行を良しとするかは、賭けのようなものだ。
決め手がたりない。

新型コロナで配布された10万円の給付金。
今はありがたい物ではあるけれど、時間が過ぎた頃に返さないといけない。
誰かが恵んでくれる物ではなく、与える者の元金は奪われる者達から回収される。防衛費を上回る10兆円超えの資金。
徳を積んだぐらいでは返しきれない。
でも、国民全員で返す。自分達でなんとかするしかない。
このことは、プラス、マイナス、ゼロって事で、わかりやすい。
神の教えや社会が潜在的に持つ不均衡よりも理解しやすい。
そもそも「徳」を積み続ける行為は、積んでいくことではあるけれど、取引ではなく、みかえりを求めない、ゼロに変換されるものなのだ。
では、それが誰にとっての「徳」なのかを考える事が必要なのかもしれない。

ま、人間界の評価では、靴の裏に張り付くガムと同レベルの私としては、牛のように、ただ毛や肉になるために働くことでも良いかもしれないと思ったりもする。
救いは無いけれど、奪い尽くされて、結果、誰かが徳を得るなら、そういう人生でも、まんざら悪くは無いのだろう。
誰かの徳にはつながるのだから。

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