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■表現を変えても、事象に変化はない
ニー株ブログの超私のりこさんのブログのなかに、
とろろいもさんが「親は悪い遺伝子の子供を頑張るようにいう」
という話がある。
これだけ読むと、ネガティブ要素が多めの話だ。
一方で、思う気持ちは純粋であると思う。
でも、自分の子供を持ち、親になることが怖くなる考えだ。
国方針はどうあれ、そう考えると詰みの状態しか思えない。
しかし、同じ事象であっても、お金を集める人の言葉は変わる。
「この遺伝子の優位性は人類の競走に打ち勝って生存している
ことから明らかです。」
みたいな事実だから正しいという方向で話をする。
全ての遺伝子はそうじゃないのか?と聞くと、
そこで用意していた最近の遺伝子を分析してアスリートの種目を
決める話とか、そんな話から、この遺伝子の適応性について語る
だろう。
どれも過程で結果は不明。
その後の未来なんて素質と関係が一致すると限らない。
事実は変わらないし、今感じている気持ちも変わらない。
起こっていることは、何も変わらない。
ただ、周囲の理由付けが変わっているだけ。
ポジティブに進もうが、ネガティブに進もうが、本当の現実は何も
変わっていない。
はずなのに、
投影するイメージは、それぞれ変化して、もともとの人の地位を脅かす。
人のポジションは、その人の絶対的な位置では無く、周囲の相対的な
位置で固定化される。
全くアンバランスで、不当な扱い。
だから、みんな全能の神という一階級上のポジションの存在にすがる。
真に平等という基準で判断される事を期待して。
どう表現しても、どう説明しても、絶対的な現状は変化しないわけで、
その不満は説得するほど違和感として残り続ける。
■基準も見つからないし、定まらない
世の中は、平等を望み、平等になる方法を探している。
しかし、できあがった物は、平等になっていると思えない。
それぞれの視点が違うから、基準点の違いは埋めようが無い。
どこが基準点か、本来は教育が決めるはずなのだけれども、
固定観念は良くないという判断から、常識を断定した教育は行われない。
何が基準なのかは、あまりすり込まれない。
だから、ブレブレの状態は、ずっとブレブレのまま、人生がスタートする。
存在するグループの中の範囲で成立する常識。
それが、今の時代の基準点になる。
グループは、家庭であり、クラブであり、クラスであり、気の合う仲間であり。
つまりは、曖昧なローカルルールの中での決まりでしかない。
自由をもとめるが故に、共通概念が希薄になり破壊されていく。
そもそも、確固たる共通概念があり、その上で自由表現が存在すべきだと思う。
だから、昔の方が共通部分が多く、みんなが安心できたと思う。
別な視点では、
学校の歩みに疑問を感じて、個々の自由教育を重視した過程は、
分かる気がする。
学校に先生が自由に決めたローカールルールが氾濫して、
基準とするには問題が大きすぎる時期があったからだと思う。
靴下の長さや色、スカートの丈、髪の長さなど、
なせ決めなければいけないのか、
先生自身も理解できていないし、そこを規定した理由も不明だ。
道を示すべき、基準を与える仕事の先生自らが、その役割に徹し切れて
いない事が問題だと思う。
かわいそうな事に、教育のしわ寄せは子供達にたまり、
その時期の子供達は一生消えない刷り込みが入る。
だから、まあ、教育って大事だし、国家の基盤だよね・・・って話で、
親から始まった環境も、時間的な流れで変化するわけで、親が始まりでも
不幸が続いていたわけでも、これから不幸が続くわけでも無いと言う話。