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ミッドサマー
Mid summerなのだけど、タイトルは mid mommarと書かれている。
北欧のカルト集団を軸にしたホラーじみた映画だ。
(北欧神話で9は、Neu=新しいにつながり、更新。その一歩手前で最も大きい数字、長い期間を表す。9日間=長きにわたり・・・をイメージする)
映画館で終わったときに周囲で見ていた人達は、
「なんだろうねぇ。」
って、感じの声が上がっていた。
2~3人の女性グルーブとか、男性のグループとか、見ているのはそういう人達。
デートで男女が見る映画ではないとは思う。個人的に。
この映画は、9と言う数字が軸だったり、テーブルの配置とかがルーン文字みたいだったり、北欧色がとにかく強い。
白夜の中、裏を返すと暗闇に紛れて、逃げることが出来ない事を暗示させたり、静かな重い恐怖がやってくる。
はじめのシーンで出てくるテープルの配置は、ルーン文字の”o”のような形。
オーだけど、ゼロ?
マンガ『ベルゼルク』の生け贄のマークにも見える。
始まりだから、ゼロなのかな(犠牲者ゼロ)と思ったりもする。
とにかく、意味深で予備知識があった方が、理解が早いのかもしれない。
でも、映像の中に、すがすがしい夏の風景は、至る所にある。
[ナチュラリストの軸は水]
パステル調の薄い黄色と緑。そして少しのプルー
太陽の光は必須だ・・・だけど、道東は夏でも曇りがち。
下の写真中央は、キタキツネ。
カルト集団と言うと、集団生活のステップに重きを置いていたり、宗教中心だったり。大抵は、社会的なルールの前提の元に進む。
カルト集団であっても学校に通うし、基本的なルールはその国の法律に従う。
それが、今の時代の常識だ。
映画の集団は見た目健康的で、物静かな人達だ。
静かに90年に一度の9日間のサマーフェスティバルを祝う一連の行事を始める。
暖かな日差しの中で、白をベースとしてた衣装で軽やかに踊る。
どこかの国の民族衣装を着たお祭りを思わせる。
しかし、始まりのテーマは別なところにもある。
ネタバレかどうかは解らないけれど、この集団の軸にあるのは、個人ではなく、とにかく集団としての『共感性』にある。
一人の苦しみや、一人の感情を全員でまねをして共感を得るという考え方。
自分の苦しみをどれだけの人が理解して、共感してくれるのか、それがテーマのように感じた。
日本に近い。取りあえず隣人の動作をまねる。
トイレットペーバーと言えば、みんな一緒に買い求めるし、ハイボールと言えば山崎を飲み尽くすぐらい、山崎ハイボールが街に流れる。
西洋人の社会的な基盤は、個人。
核家族だったり、個人主義。
いまの日本の社会は、どちらかと言えば、欧米化で西洋人とほとんど変わらないと思う。だから、周囲に共感を得てくれる人が少ない。
でも、何かに動かされるときは、まだ欧米化にはなっていないんだなと感じる。
日本の社会も、人の優しさを求めている。
みんなで作業して、自分が勝手にやっているところがあると、それを修正して生きる方が最後は問題も起きず楽だ。
個人の意見が無視されるわけでも無く、良ければ意外と採用される。
全くの無視も行われない。
カルト集団の問題は、超自然に対して対応が出来ないときに、何かの大きな犠牲の対価によって救われると思ってしまう罪のバランス的な考えが発生してしまうとやっかいだ。人柱を立てると解決すると思ってしまうような所。
そもそも、自然に対価という考えは存在しない。
これは人が、勝手に考えた事だ。
プラス、マイナス、で世の中の帳尻が合うようには出来ていない。
苦行に見合う対価はない。
そうであって欲しいと言う希望を表したもの。
自然は奪いたいだけ奪うし、人間も一方的に奪いたいだけ奪う。
石油や石炭、漁獲量、いずれも人が一方的に自然から奪っている。
他のことで、何かを返したとしても、全く奪った物とつながらない。
つまりは人が思い込んでいるだけのもの。
バランスの概念と、コミュニティーの存在意義は別もの。
人間が世界の一部と考えるのは、実はバランスの概念。
個人を集団で支えると言うことがコミュニティー的な考え。
まあ、ここでも見返りを求めてしまうと、個人はコミュニティーの犠牲にならないといけないと言う解釈が発生してしまい、これも間違っている。
他人を支える犠牲の範囲が問題になる。
one for all, all for one を one=目的とすると、
目的がすべて。すべては目的のため。 になるので、かなりな一方通行だ。
視点の置き方で解釈が違うと、違う解釈に人は説得されやすくなる。
理由ずけがしやすいから。
結果、集団は容易に思わぬ思念にとらわれることになる。
2020年春の中国をテーマにした映画で、ガン告知を行うべきかどうかという映画が、放映される。個人への告知は西洋では必要な事、でも東洋では違うという。
祖母の命は家族全員の命。
告知をせずに、楽しく暮らしていこうというストーリーらしい。
これも、カルト集団的なコミュニティーと基本は変わらない。
犠牲の幅が違うだけ。
痛みを気持ちを共存するコミュニティーのあり方は、否定はしない。
しかし、本来の目的を見誤ってはいけない。
行う儀式が重要になってしまったり、今の苦痛が未来の幸せに転換されると思い込んでしまったり、コミュニティの存続が人への大きな犠牲の下にあってはいけないのだ。
一般的な忌み嫌われるカルト集団と言われる段階に進化したときには、人が何かの犠牲になってしまっている。
人を救う集団のはず、だったのでは。
では、ニー株は?
共感を得る為に発生していないけど、何かを協力したいとは感じて生まれたコーポレーションじゃないのかなとは思う。
精神的に何かを支え合うことは出来るはずだ。
時間の経過と共に、何かの為に人の痛みが犠牲にならないことを祈る。
コミュニティーの方針は、いつで見直すことが出来る。
気がついた時に、人の命や生き方が中心と言うことを忘れなければいい。
犠牲になることを避けよ。そういう事だと思うけど。
ちなみにミッドサマーの主人公の女性は、5月公開の『ブラック・ウィドー』の妹役の人。はじめのシーンに出てくる老人は、かつての『ベニスに死す』の憧れの美少年役の人だ。
最近やっていた『ドン・キホーテ』の映画の主役は、スターウォーズのダースベーダの孫役の男性だし・・・。B級なのか、一流なのか、基本、役者は何でもやるのか、よく解らない感じだ。
最近は、コロナウィルス対策で、映画にいけない状態なので、封切りをネットで見れる仕組みも、今後は検討が必要かと思う。そもそも郊外だと封切りが見れない。移動が大変だったり、身体的な理由で移動が出来ない人もいるだろう。
それに、最近は映画の切り替わりが速すぎて、
「先日封切りなのに、もう、おしまい?」
とか、わりとある。時間が長い映画だと、まず、映画館以外では見ない。
家で見ると、つまらないシーンの時に『ながらモード』に突入するので、作品に集中して見ていないから、記憶に残らない。
=時間のムダ になる。
と、これを書いている間に、『ミッドサマー デレクターズカット版』が、公開された。マジかよ。最初から、言っておいて欲しい。
途中であっさり処理されたカップルや近親相姦で生まれた神の書を書いている人について、そのあたりが不足した感じだったので、それを見ると判るのかな。
だけど、『精神負荷』が強すぎて、二度見は出来ない。
もう良いかなって感じで諦めた。
『メイドインアビス』も4DX版がで経っていっても、二度見る気はしないし、プロモーションが間違っている気がする。
精神負荷がとっちも大きいから、二度見たら壊れちゃうよ。
と言う事で、なんか、緩い夏の日のような終わり方だな。
今年の夏は、どこで、何をしているのだろう。