みのむしクリップ
最新記事 by みのむしクリップ (全て見る)
- 秋はマロングラッセ - 2024年10月30日
- 働けど働けど、貧乏な人生 - 2024年4月23日
- 2024年は戦時中 - 2024年4月23日
- ■技術部の壺の中 – Vol. 131 [SONYも木から落ちる] - 2023年3月16日
- 旅するニート – [弘前市内] –旧藤田家別荘 - 2023年3月10日
生物が根っこにあるから、尺度の基準は自己の利益に依存する。
同じことをしても、相手の反応は
同意することで利益があるか、ないか
その差で決まっている。
自分に利益をもたらしてくれる人への反応
「それわかります。すごくいいですね。」
利益無し
「なんか方向がずれている感じ。毎回そう思うよ。」
多分、自分もやっているのだろう。
そうして、自分が下だと思っている者達をさげすみ、
自分もさげすまれ、全体で何が良いことなのか。
社会は、いつも少しずつ有益な方に向かっているハズなのに、
ふと思うと、全く理解が出来ない。
そもそも、そこでストレスを与える必要も無い。
そう考えると、じっとしていた方が、みんなが幸せになれて
みんなが幸福になれるのでは無いか。
「震災の時に助け合っている様子を見て感動しました。」
人に感動や良い気分を与えるのも、やはり人なんだ。
・・・でも待って、・・・
そもそも不幸になった人を救うことの感動が正しいのかどうか。
助けていることは良いこと。
でも、それを見ている人は、不幸になった人の不幸を悲しむべき
ことなのかどうか。
イチゼロで考えると解らなくなる。
答えは、どっちも同時に存在するのだろう。
助けていることに感動し、不幸になったことを悲しむべきなのだ。
でも、最近の社会は、イチゼロ反応が単独で存在して
誰かを攻撃している。
<雨にもまけず>
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西につかれた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいといい
北にけんかや訴訟があれば、つまらないからやめろといい
4つの慈しみを同時に行う。