みのむしクリップ
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人はこころを持つために、とても弱い。勿論、強くもなれる。
それは説明しなくてもみんな知っていると思う。
そして依存し続ける心は、とても弱い。
助けて欲しいという気持ち、そこには自分でどうにかする、と言う気持ちが死んでいることを知っている。
近所の猫のはなし
ある家で猫が飼われていた。
まだ、少し小さくてすらっとしていて、座るときには両前足をそろえて、シャキッと背筋を伸ばしたように座る。
他の猫のように、日向でだらっと溶けて、「猫は液体」って論文の対象になったりする事は無いだろう姿だ。
彼女は昼少し前に家から出かける。
そして、帰宅するときに家の前で
「にゃん。」
と鳴くと、玄関の扉が開いて、家の人が中に入れてくれる。
そんな生活を続けていた。
うちの家族の中では、
「あの猫は、品が違う。」
と、よく話しにするぐらい気品が高い猫だった。
人を見て、あわてて過ぎ去っていくと言うことも無い。
何事も気にせず、ただ自分のリズムで進む。
そんな貴族みたいな猫だった。
飼い主は、年老いた一人暮らしの女性だったみたいだ。
2月に、猫のその日常は急変する。
夜に家の前で鳴いている姿をよく見るようになった。
家の電気は消えている。
どうも不在のようだ。
2週間ばかりそんな状態が続き、その後、帰宅途中の夜に目にすることは無くなった。
日本中が新型コロナウィルスで緊急事態宣言が報じられる頃には、その猫の事をすっかり忘れていた。
とはいえ、見なくなったなとは思っていたので、飼い主に無事に保護され、引っ越したのかもしれないと、ぼんやりと思っていた。
5月連休の終わりに、予想せず、その猫と再開した。
団地の外れに近所の野良猫と一緒にいた姿は、液体のように丸くなり地面に座っていた。
あの気品はとうに無くなっていた。
その後、猫が出入りしている家から、家財を整理する人達が出入りし、猫は自分を中に入れてくれるのかもしれないと、両足をそろえて、玄関の横に静かに座っていた。それは没落した貴族の意地にも思えた。
すっと、猫なのに背伸びをして静かに座っている。
その日の夜、帰宅途中でみた猫は、真っ暗な家の玄関の扉の前で、静かに鳴いていた。
「にゃん。」
「にゃん。」
「にゃん。」
5~10秒程度の間隔を置いて、静かに鳴いていた。
その後の彼女は、夕方らか夜の9時ぐらいの間に、家の前に行き、鳴くことを続けていたようだ。
家の中には、決して入ることはないだろう。それは決まっている。
でも、彼女の記憶には、何時か扉が開くという
彼女の本来の気品がそうさせるのだろうか。
それは今でも続いている。
寂しく、間欠的に鳴く姿が、どうしようも鳴く辛く感じる。
当然ながら自分の飼い猫じゃないのにエサは与えられないし、代わりに買うことも団地の事情で出来ない。
だから、中途半端に情けもかけず、ただ見守るだけ。
「それでいいの?」
そう辛く感じるのは、おそらく自分のエゴだし、何事もなく続く日常から放り出された境遇は自分とかぶる気がするけれど、そのすべてが、自分の選択として処理される。
・・・悪いのは、日々注意深く先を見据えた生き方をしてこなかった自分・・・
社会での評価も、自分の評価もそういう頃に落ち着くし、「出来ないヤツ」の肩書きはその体に強く書き込まれる。
そして、よりいっそう、出来ない自分にふさわしい容姿に変わっていく。
どこまでも、凜としてしないといけないのか、一体何が間違ったのか、まずかったのか。
猫の姿を見る度に、その問答が自分に襲いかかる。
きっと自分も何も出来ずにいる。
ただ、周囲の状況が変わって、自分が救われることだけを考えている。
一体何時まで続くのか。
猫の新しい日常は続いている。
それを見て、切ない気持ちも続いている。
一体何時まで我慢すれば良いのだろうか。
自分でなんとかしたらどうか?・・・って、人は言うけど。
動けない理由は、自分でもわからない。