容姿の話

世の中可愛い人、かっこいい人、美人な人がもてはやされます。

優れた外見はそれだけで印象が良く、その人の魅力として周りの人を惹きつけます。

人が絡むこと、特に対面する状況において、それは絶大な効果を発揮します。

容姿が良いことは、圧倒的価値を持つわけです。

可愛い人にも苦労があるし不細工も不細工なりに良い面がある、という意見も確かにもっともだとは思います。

ただそれは全体を大まかに見た場合の意見であり、おそらくそれぞれのメリットデメリットを数値化してみれば、不細工の場合マイナスになる要素が大きすぎると思います。

 

容姿による平等性

私は、人間は生まれながらに自由であるという考えの持ち主です。

なので、生得的な要素である外見であらゆる局面における優位性が変わってくるのは、いまいち納得がいきません。

なにより、そんなこと思っているくせに結局なんだかんだ可愛い子に目がいってしまう自分が許せなかったりします。

また、どちらかというと機会の均等を重視する平等主義者寄りです。

平等にするための方法として、不細工な人も素敵、みたいに人間の認識を根本から変えることは難しいと思います。

容姿が優れた人がデメリットを被るような仕組みを導入することも同じくらい難しいように思います。

なので、外見的に劣った人が自己を改善しようとする美容整形なんかには、賛成の立場です。

 

美容整形

整形した人に対して抵抗感を持ちやすいのは、おそらく騙された気がするからだと思います。

もしかしたら、いつだかの記事で書いた気がしますが、自分の固有の能力ではない感じや、自分の手で勝ち得た能力ではない感じに抵抗感を覚えるのと似ているのかもしれないです。

いずれにしろ、整形それ自体に悪い印象を持つべきものではないように思います。

歯の矯正や脱毛との違いなどはよく議論さてれていますが、このあたりの境界線は流行りの度合いなどによっても変わってくる気がします。

 

考え方の転換

人とのコミュニケーションの場において勝てないのだから、一人でできる仕事などに力を入れる、という手段もあります。

配られたカードで勝つために、別の場所で勝負をするという考え方です。

この考え方は多くの場合においては有効だと思いますが、現代では人間との交わりの重要性が圧倒的に高いので、容姿における有効性は低いと思います。

世界がロボットだらけになるなどして人とのコミュニケーションの重要性が弱まった社会になったならば、有効な手段となり得るのでしょうか。

また、不細工だからこそ他のことに力を入れられる、という考え方もありそうです。

アドラーは、劣等感が人間の成長を促すと述べました。

ただ、コンプレックスをばねに物事を成し遂げるという話は結構ありますが、よっぽどの成果でない限り、優れた容姿の優位性、万能性には勝てない気がします。

かといって、私はブスだからしょうがない、とそのままにしておくよりは、努力して幾分か成長したほうが良いのは間違いありません。

 

可愛いとは

それにしても可愛い人は、なぜ可愛のでしょう。

個人の好みの差こそあれ、可愛いとされる人のパターンには、万人受けしやすい王道が確かにあります。

文化的側面が強いのか、生物学的側面が強いのか。

平安時代はふくよかなのっぺりした顔立ちが好まれたなどと言われていますが、実際のところ果たして本当だったのか気になります。

以前見たクレイジージャーニーという番組で、日本人女性のおっぱいがアフリカ先住民族の人々に好まれていたのは印象的でした。

生物学的側面だとすれば、可愛い人の顔は健康的要素が詰まっていて、子孫繁栄的に優秀なのでしょうか。

それとも孔雀などのように、性選択を勝ち抜くために目立つ要素として、優秀なのでしょうか。

 

最後に

まあ、現代社会は寛容性がそれなりにあり、容姿の格差は気持ちの問題も大きいので、気にしなければたいして気にならない些細なことだったりもします。

あと、この記事は容姿の良い人悪い人どちらかを批判しているわけではありません。

容姿と密接に絡まる社会に、不満というか何というかがあり、とりあえずいろいろ書いてみただけです。

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